この寺を創建された良勝公は、父山村良候(やまむらたかとき)公とともに、天正十八年(一五九〇年)、木曽の最後の殿様となった木曽義昌公の移封(国替え)に家臣として従い、下総の網戸(現在の千葉県旭市)へ移りました。
しかし、義昌公の没後、跡継ぎである義利の乱行を家康に咎められ、慶長元年(一五九六年)に木曽家は改易(取り潰し)されてしまいます。
そのため良勝公は下総(しもうさ)(現、千葉県)で流浪の身になりましたが、そのころ開山を任せることとなる柱山(ちゅうざん)和尚と懇ろになったと伝えられています。
慶長五年(一六〇〇年)、徳川家康の率いる東軍と、豊臣方石田三成を中心の西軍との間で、天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の戦いがはじまります。
この時家康は嫡子秀忠(ひでただ)(後の二代将軍)が率いる徳川軍を、木曽路経由で関ヶ原へ向かわせようとしますが、そのためには、豊臣方の支配下にあった木曽を制圧しなくてはなりませんでした。
そのため良勝公と、同じくもと木曽家の重臣であった千村良重の二人に命じて木曽を攻めさせました。
良勝公らはこの命に従って木曽路を制圧し秀忠の率いる軍勢を無事に通過させることができました。
この功によって父山村良候公は初代の木曽代官に任じられましたが、翌々年に良候公が死去しましたので良勝公が二代目代官を継ぐことになります。
柱山和尚が何時木曽へ来られたのかについては諸説ありますが、下総に居た頃にできた山村親子との縁が、木曽への縁となり大通寺開山へと結びついたと思われます。
また、良勝公の奥方も寺の創建を熱心に進言されたとも伝えられており、当時、奥方の弟小笠原内蔵助(おがさわらくらのすけ)の屋敷跡(それ以前は木曽義昌公の屋敷)にこの寺を建てたとも伝えられています。
それらの経緯によって良勝公の奥方の位牌「大通寺殿炎山宗梅大姉」は大通寺にまつられ、大通寺過去帳の一番に記されているのではないかと思われます。なお、お墓は町内長福寺にあります。
寺の名前は、開基となられた良勝公の名から一字と、禅の公案にある「大通智勝佛」(法華経の化城喩品(けじょうゆぼん)にある話)に因んで「智勝山大通寺」とつけたと寺にある古文書に記されています。
なお、寛政十一年(一七七九年)に第九代住職継山和尚は良勝公によって大通寺が創建された由緒を「智勝山大通寺縁起」として書き残してあります。
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