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鐘楼門

 

お入りなった鐘楼門は建てられてから二百三十年余年を経た町中では一番古い建物で町の有形文化財に指定されています。

門の中に横たわっている木が皆さんの足に触れてすり減っている様子が長い歴史を物語っています。二階に梵鐘が吊ってあり山門(三門)を兼ねた鐘楼となっていますので「鐘楼門」と呼んでいます。

菊水や花オモダカなど装飾の彫刻がされているところにも注目して下さい。

 門に掛けられている「大通禅寺」と彫られた扁額を見ていただけたでしょうか。彫られた字体は江戸時代の有名な書家・三井親和という方が書いたものです。額の左すみに「東都九十八歳親和」と書かれていますが、門が建てられた年と親和の九十八歳が一致しています。みたところ割合新しいように見えますが、雨や直射日光にも晒されないなど環境に恵まれたためだと見られます。

 本堂などは近年に新築されていますが、この門は大通寺の象徴的存在で、町内のみなさんからも親しまれています。

真理姫供養塔

 

 門をくぐった左側に廿三夜塔などの石碑と並んで五輪塔がありますが、これが「真理姫の供養塔」です。昔は境内であった現在JRの線路敷あたりにあったものを線路敷設のためにここへ移したものです。

 天文二十四年(1,555年)武田信玄の軍勢が木曽へ攻め入り戦況が不利となり、時の木曽の領主木曽義康は人質の交換を条件に和睦しましたが、信玄からは義康の嫡子義昌と武田信玄の息女真理姫との結婚も条件とされました。その後、真理姫は義昌の武田家からの離反や、網戸(現千葉県旭市)への国替え、夫の逝去とお家断絶などにより波乱の一生を送ることになりましたが、晩年は木曽へ戻って九十八歳の長寿を全うして亡くなられました。

お墓は当町三岳地区の野口の地にあります。旧家臣の上村家に身を寄せていたと伝えられていますが、その上村家の後裔のお宅の横にその墓である小さな五輪塔があります。大通寺を開基された山村良勝は、かっては木曽義昌の重臣でしたから、そのあたりの縁からこの寺にまつられたのではないかと思われます。

本堂

 本堂(平成六年落慶)の祭壇には本尊の観音菩薩像がまつられています。厨子の扉に「南無子安大慈大悲観世音菩薩」と書かれています。脇持として不動明王と毘沙門天がまつられています。厨子の扉には「諸願成就安産長生息延命依安穏」と書かれていますので、そんな願も込めてお参りしていただければと思います。

 位牌壇の右最上段に十王像が並んでいます。おなじみの閻魔さまもみえます。昔町外れのお堂にまつられていましたが、天和年間にお寺の境内のお堂に移されと古文書に記されています。平成六年の本堂落慶にあわせて本堂に移されました。四百年近くを経た古い像ですが、その時お化粧直しをしてきれいなお姿をしています。

智勝会館

ちょっと智勝会館へも立ち寄ってみてください。

玄関の天井絵は昭和六十三年に現在の住職と親交のある瑞浪市の市岡伴哉画伯の書かれたものです。禅書の「牛飼い草」の十牛図を題材にした絵を中心に描かれています。

脇に賓頭盧尊者の像が座しています。こんなところにと思われるかもしれません。お釈迦様の弟子で十六羅漢のうちの尊者ですが、持ち前の神通力をもてあそんだとしてお釈迦様に叱られ、以来本堂の外陣にまつられるようになったといわれています。

善光寺さんなどでも「おびんずるさま」別名「撫仏」と呼ばれて親しまれている仏様です。

開山堂・観音堂

明治四十三年(1,910年)に中央線の木曽福島・宮ノ越間が開通しましたが、そのため大通寺の境内は分断されました。その線路の踏切を越えたところに平成十六年、開山堂が建設されました。

そこには開山された柱山和尚の木像をまつっていますが、天井には現住職と絵画の同好の誼を持たれた六十九人の皆さんが描いた天井絵が描かれています。花の絵が中心ですが、いずれも力作で美しい絵で飾られています。

階下へ降りますとギャラリー「蒼天」と観音堂「洪恩窟」を設けてあります。

観音堂には天明三年(1,783年)に当時の福嶋村の住民が寄附された「西国三十三観音像をまつってあります。開山堂落慶にあわせて修繕して黄金色に輝いていますが古い仏像です。その頃は西国三十三観音霊場めぐりが盛んでしたので、巡礼の記念に寄進されたものと見られます。

ギャラリーは皆さんのも絵画や作品の展示に利用していただきたいと考えて設けました。ご利用の相談をお待ちしています。

 

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