鐘楼門
建てられてから二百三十年余を経た、町内最古の建物で、木曽町指定有形文化財です。二階に梵鐘を吊るし、山門を兼ねています。「大通禅寺」の扁額は、江戸時代の書家・三井親和の書です。
鐘楼門(山門)に掛けられた扁額
門に掛けられている「大通禅寺」と彫られた扁額です。額の左すみに「東都九十八歳親和」と書かれていますが、門が建てられた年と親和の九十八歳が一致しています。割合新しいように見えますが、雨や直射日光に晒されないなど、環境に恵まれたためと見られます。
長野県木曽郡木曽町福島の禅寺です。町内最古の鐘楼門は、木曽町指定有形文化財です。本堂、智勝会館、開山堂・観音堂など、境内の見どころをご案内します。
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鐘楼門から上の段用水まで、
境内に残る六つの見どころをご紹介します。
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建てられてから二百三十年余を経た、町内最古の建物で、木曽町指定有形文化財です。二階に梵鐘を吊るし、山門を兼ねています。「大通禅寺」の扁額は、江戸時代の書家・三井親和の書です。
門に掛けられている「大通禅寺」と彫られた扁額です。額の左すみに「東都九十八歳親和」と書かれていますが、門が建てられた年と親和の九十八歳が一致しています。割合新しいように見えますが、雨や直射日光に晒されないなど、環境に恵まれたためと見られます。
五輪塔の供養塔です。武田信玄の息女・真理姫は木曽義昌に嫁ぎ、波乱の生涯ののち木曽へ戻って、九十八歳の長寿を全うしました。その生涯をしのぶ塔として境内にまつられています。
平成六年に落慶しました。本尊は観音菩薩像、脇侍に不動明王と毘沙門天をおまつりしています。四百年近くを経た十王像もまつられています。
天井絵は、昭和六十三年に市岡伴哉画伯が描いた「十牛図」を題材としたものです。賓頭盧尊者の像は、館内ではなく、本堂と会館を結ぶ廊下にあります。
平成十六年に開山堂を建設しました。天井絵は六十九人の合作です。階下には観音堂「洪恩窟」があり、天明三年に寄進された西国三十三観音像をおまつりしています。
上の段用水は、上の段の暮らしを支えてきた用水です。
慶長六年(1601年)の創建から、今日の姿になるまで。
開基は木曽代官・山村良勝公、開山は柱山和尚です。柱山和尚は慶長五年(1600年)に良勝公に従って木曽へ来られ、翌慶長六年(1601年)に大通寺を開山されました。寺名「大通寺」は、良勝の名の一字と、法華経の「大通智勝佛」に因んで名付けられました。
鐘楼門を建立しました。二百三十年余を経た今も町内最古の建物として残り、木曽町指定有形文化財となっています。
本堂を新築し、落慶しました。本尊・観音菩薩像を中心に、不動明王と毘沙門天を脇侍としておまつりしています。
開山堂を建設し、今日の姿になりました。階下には観音堂「洪恩窟」を設けています。
どなたでも参加できます。初めての方もどうぞ。
毎月第4日曜日に開いています。初心者向けの会ですので、初めての方もお気軽にお越しください。檀家でなくても参加できます。参加は無料です。
坐禅会と同じく、毎月開催しているピラティス教室です。
お申し込みは大通寺の公式LINEよりお願いします。ヨガマットのレンタルが必要な方は、お申し込みの際にお書きそえください。急な変更があった場合は公式LINEにて通知します。
お申し込みや、毎月のお知らせ・日程の変更を、公式LINEでお送りします。
「ピラティスとは」「ピラティスの歴史」「講師紹介」は、専用ページでご紹介しています。効果や成り立ち、講師・大島桃子先生の経歴をご覧いただけます。
開山から第十四世まで、歴代住職の頂相をご紹介します。
大火を免れ、歴代の肖像画がすべて残る寺です。開山から第十四世まで、歴代住職の頂相を画像と説明でご紹介する専用ページをご用意しました。
境内の四季や行事の様子を、写真で発信しています。
ご参拝・ご相談はお電話またはメールでどうぞ。
大火を免れ、歴代の肖像画がすべて残る寺です。このページでは、禅僧の肖像画「頂相(ちんそう)」と、大通寺に受け継がれてきた歴代の頂相についてご案内します。
大通寺では、歴代住職の頂相が失われることなく受け継がれ、大切に保存されています。このページでは、開山・柱山和尚から第十四世まで、歴代住職お一人おひとりの頂相を、説明とともにご紹介します。
頂相(ちんそう)とは、禅僧の肖像画です。広義には像も含まれますが、一般には掛け軸になったものを指します。
古くは中国は宋の発祥で、曲彔(きょくろく)という椅子に座具の法被をかけ、衲衣(のうえ)に袈裟(けさ)をつけ、右手に竹篦(しっぺい)か払子(ほっす)をもち、ゆったりとすわる形式で描かれ、境涯を讃える漢詩が添えられます。
本来は師が弟子に法をつたえた証しとして与えたものだそうです。
着衣は形式的に描かれるのに対し、顔は写実的に描かれたものが多く、写真のない時代には身分証明書のような役割があったのかもしれません。
禅寺では先師の法要の際に頂相を懸け礼拝をします。
現在では、弟子や後の住職が頂相を作成することが一般となっていますので、もともとの免許状から、遺影としての意味合いにかわっていったものと考えられます。
大通寺は、幸い大火にもあわず、歴代の頂相がすべて保存されています。
開山から第十四世まで、住職ごとに頂相の画像と説明を並べてご紹介します。
慶長五年(1600年)、山村良勝公に従って上総から木曽へ来られました(一説では、良勝公の父・良候公に従って、それ以前に木曽へ来られたともいわれます)。翌年、大通寺を開山されましたが、その後の消息は不明です。
元和二年(1616年)に大通寺が火災に遭い、由緒書を焼失しています。
この頂相の賛は、明暦二年(1656年)に長福寺六世住持・高安周澄禅師が書かれたものです。
慶長五年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで徳川軍が勝利。徳川家康は山村良候を初代木曽代官に任命しました。慶長八年(1603年)2月、江戸幕府が成立しました。
出典:現行サイト「開山 柱山和尚」のページ(daitsuji.com/course1.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
古文書「諸願書留」(享保十年(1725年))の寺社奉行書宛届出書に「中興開山大通寺北傳和尚」との記載があります。
賛を書いた方は「廣傳山主」となっているが、寺名・師の名前など不詳です。
寛文七年(1667年)から、キリシタン禁制に関わる指示文書が多く出され、それ以降宗門改めなどで、寺務も大変だったことが大通寺の古文書からうかがえます。
出典:現行サイト「第二世 北傳祖秀禅師」のページ(daitsuji.com/course4.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
この頃、キリシタン禁制の取締りが厳しく、宗門改めなどで寺務も繁多でした。
貞享五年(1688年)に、正法末流江岳全呈禅師が書かれました。
天和元年(1681年)、幕府は隔年で行って来た宗門改めを毎年としました。
出典:現行サイト「第三世 凉南恵薫禅師」のページ(daitsuji.com/course2.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
正徳三年に、長福寺末龍源寺(後年廃寺となった)の覚門禅了禅師が書かれました。
元禄十五年(1702年)12月は赤穂浪士の討ち入りがあり、翌年2月に大石内蔵助以下四十七士が切腹しました。この頃から伊勢参りなどが盛んになり、中山道が賑わい出します。貞享四年(1687年)、芭蕉が信濃を旅し、翌年は奥の細道への旅に出ました。また同年、将軍綱吉が生類憐みの令を発布しました(〜1709年)。
出典:現行サイト「第四世 泰宙宗久禅師」のページ(daitsuji.com/course5.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
きわめて短い住持期間でしたが、古文書には病死とあります。
讃は安永三年(1774年)に、高須山越宗禅寺(岡崎市福岡町にある)の良哉和尚が書かれました。
宝永四年(1707年)、富士山の大噴火がありました。この頃は参勤交代で中仙道の道中使役に住民が苦しんでいました。またこの年、檜・椹・槇・明檜の四木が停止木とされました。
出典:現行サイト「第五世 證宗禅悦禅師」のページ(daitsuji.com/course6.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
享保二十年(1735年)、長福寺の住職が旅に出たため、住職を代行しました。
享保二年(1717年)、大岡越前守が江戸町奉行になりました(将軍は前年から吉宗)。享保三年(1718年)、寺財政難で西光寺の跡地を譲ってもらいたいと代官に陳情。享保九年(1724年)に木曽谷総検地が施行され、享保十三年(1728年)は大雨洪水と凶作で難渋しました。
出典:現行サイト「第六世 固関宗堅禅師」のページ(daitsuji.com/course3.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
賛に福島生まれ、姓は吉村とあります。宝暦元年(1751年)、大通寺堂宇移築を上申し許可を得て、翌年にかけて工事を施工しました。宝暦十三年(1763年)には、慈照(後の住職・東傳和尚)の弟子入り許可を申請。寺へは前年に入っていました。
明和二年(1765年)、三州の祥雲山華岳禅寺(愛知県幡豆郡吉良町大字岡山字山王山)の良哉和尚(後年、第五世の讃を書かれた方)が書かれました。
延享三年(1746年)、江戸に大火がありました。
出典:現行サイト「第七世 要巌玄樞禅師」のページ(daitsuji.com/course7.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
明和二年(1765年)以降、外門移築ほか十王堂移転など、堂宇の整備に尽力しました。安永三年(1774年)、長福寺住職・靏田和尚の遷化につき、長福寺及びその末寺の寺務(宗門改め)の代行を寺社奉行所へ上申。安永七年(1778年)には鐘楼門が新築落成しました。
天明二年(1782年)、宮ノ越村の咋非(十一歳)を弟子にとりました。この年、天明の大飢饉が始まります。天明七年(1787年)に遷化。靏蔵主を大通寺の看坊に置きました。この靏蔵主が、後の第九世・継山玄鶴和尚です。
寛政元年に書かれ、「翁天眼」とありますが、どなたであるかは不明です。
宝暦十年(1757年)、白隠禅師が伊那・木曽を巡錫されました。明和六年(1769年)、木曽谷農民騒動が起こります(米の買占め反対)。天明三年(1783年)、浅間山大噴火。
出典:現行サイト「第八世 東傳慈照禅師」のページ(daitsuji.com/course8.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
生まれは美濃国(岐阜県)武儀郡吉田村。父母の不幸に遭い、幼くして黒沢村大泉庵(長福寺の末寺)に入りました。
寛政二年(1790年)、末寺林昌寺が無住となったため、寺務を大通寺がとりました。二年後、伊那・下条村龍岳寺の梵仙和尚を林昌寺の後住に迎えます。寛政九年(1797年)に本尊観音像修理完成法要を、享和元年(1801年)に十王像修復の法要を行いました。
文化三年(1806年)、美濃吉田村から十六歳の維石という者を弟子にとります。文化八年(1811年)、大般若経真読に諏訪温泉寺の和尚を招き、文化十四年(1817年)には諏訪温泉寺願王和尚による受戒を行いました(林昌寺無住のため、檀家の要請に応じたものです)。文政五年(1822年)、高遠藩が毎年年貢米一万石を抵当に、木曽諸宿から三千両を借りました。
頂相の像は池井祐川が描き、賛は文政四年に継山和尚自ら書きました。
寛政六年(1794年)、幕府が倹約令を出しました。
出典:現行サイト「第九世 継山玄鶴禅師」のページ(daitsuji.com/course9.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
三十七歳で遷化されました。
賛は大本山妙心寺の淳清師が書かれました。
文政十二年(1829年)、江戸大火。この頃、お伊勢参りが盛んとなります。
出典:現行サイト「第十世 稲屋全収禅師」のページ(daitsuji.com/course10.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
徳音寺龍眠和尚の弟子。安政三年(1856年)、大通寺の財政対策として頼母子講で蓄財を図りましたが、預けた先の貸金業者から返済してもらえず紛争が起き、宿方御役元へとりなしを陳情しました(大通寺世話人連署)。
賛は明治十二年(1879年)に、大本山妙心寺の漂海師が書かれました。
弘化四年(1847年)、善光寺地震が起きました。嘉永元年(1848年)、木曽のお六櫛が江戸・名古屋などで販売され、人気需要が増えます。嘉永六年(1853年)、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖へ来航しました。
出典:現行サイト「第十一世 説應宗演禅師」のページ(daitsuji.com/course11.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
林昌寺大典和尚の弟子・勝山得山。岐阜県出身です。明治二年(1869年)、廃仏毀釈令によって中津川へ移住を陳情するも、職に留まりました。境内に勧請の神社類の引き離しの指示には、猶予を申請。明治五年(1872年)、鐘楼門の屋根を葺き替えました。
霧隠熊嶽和尚が書かれました。
文久元年(1861年)、皇女和宮が中山道を行幸。元治元年(1864年)、池田屋騒動。明治元年(1868年)に維新政府が成立し、江戸を東京に改称しました。明治二年(1869年)に福島関所が廃止され、明治四年(1871年)に太政官布告が出されました。
出典:現行サイト「第十二世 得山恵拾禅師」のページ(daitsuji.com/course12.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
愛知県中嶋郡稲沢町出身。名古屋市勝川の地蔵寺(東福寺派)の弟子で、宝宗和尚により得度しました。宇佐美憲宗、昭和十四年(1939年)に遷化。
昭和二十四年(1949年)に、京都南禅寺管長・雲龍菊僊師が書かれました。
明治三十六年(1903年)、御料局木曽支庁が福島町に設置されました。明治三十七年(1904年)、日露戦争勃発(翌年1月、露軍降伏)。明治四十二年(1909年)に浅間大爆発、明治四十四年(1911年)に中央西線が全線開通し、名古屋・長野間の直通列車が運行しました。この年にも浅間山が爆発しています。昭和二年(1927年)に福島町大火、昭和十二年(1937年)に日中戦争が始まり、これより昭和十六年の第二次世界大戦へとつながります。
出典:現行サイト「第十三世 憲宗恵温禅師」のページ(daitsuji.com/course13.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
岐阜県虎渓山保寿院の弟子。今井宗俊。
像は現十五代住職・愛山勝博和尚が描き、賛は虎渓山主香南師(後の南禅寺管長)が書かれました。
昭和二十年(1945年)、日本がポツダム宣言を受諾し終戦。昭和四十七年(1972年)、沖縄返還。
出典:現行サイト「第十四世 高隠宗俊禅師」のページ(daitsuji.com/course14.html)の掲載内容をもとに掲載しています。
大通寺ピラティスの「ピラティスとは」「ピラティスの歴史」「講師紹介」をご紹介します。開催日・時間・参加費などのご案内は、トップページの「大通寺ピラティス」の欄にあります。
体の奥深くの筋肉を使い、体幹を強化する動きを学びます。ピラティスで得られる効果は、次のようなものです。
健康や美容に嬉しい効果がたくさんあります。なお、大通寺で行うものは器具を使うものではなく、マットのみで行います。
ピラティスはヨガとよく似ていますが、成り立ちが違います。ヨガは古代インド発祥で、肉体の訓練と精神の修練が結びついた宗教的側面を持つものですが、ピラティスは第一次世界大戦で負傷した兵士のリハビリの為に作られたエクササイズです。
ドイツ軍の従軍看護師となったピラティス氏は、幼少期さまざまな持病に悩まされましたが、あらゆるスポーツ、トレーニングに取り組み、青年期には解剖学書のモデルをするほどの健康的な身体を手に入れました。その研究成果をもとに、寝たきりとなった傷病兵の為、ベッド上でエクササイズが出来るよう、バネやロープなどを使いリハビリ指導を行いました。
運動と無縁の生活を送っていましたが、学生時代にホットヨガを趣味で始め、身体を動かす楽しさを実感しました。もっとヨガを深めたいと勉強をし、インストラクターとして毎日スタジオでレッスンを担当していたところ、自己流の体の動かし方に違和感や痛みが出ました。そんな時にピラティスに出会い、正しい体の使い方を学び、鍛えられていく中で体の不調が解消していった事にとても驚きました。ヨガの要素とピラティスの要素を取り入れながら、誰でも楽しく身体を動かすレッスンを心掛けています。